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容易に取得できるバイク免許だからこそ危険が潜む

2011
30
July

多くの学生は、バイク免許を取得したいと思う時が訪れるであろう。無論容易に取得できるものだ。しかし、性能の良いバイクも所詮、人が操作して動く乗り物。人にはそれぞれの適性と云うものがある。今でも行われるのであろうか適性検査。以外とその結果が正しいと確信している。私はその適性検査で高得点でいまだに無事故無違反。それに反して、不向きと判定された知人はバイク免許を取得した後に事故を起こした。皆さんも適性検査で自己分析して安全運転を心掛けて下さい。
 「欧州の窓」と呼ばれるバルト三国、エストニアの首都タリンの百貨店カウバマヤは昨年、創業50周年を迎えた。2004年に欧州連合(EU)に加盟してからの売り上げは加盟前の3倍以上に伸び、月100万人の買い物客でにぎわう。

 金融危機で09年は23%も売り上げが落ち込んだが、エン・パレル支配人は「1月のユーロ導入で外資は通貨切り下げを恐れる必要がなくなり、商いは上々だ。15年ごろには金融危機前のレベルに回復するだろう」と笑顔を見せた。

 1991年にソ連が消滅したとき、パレル氏は19歳。「ソ連時代はアイスクリームやソーセージを手に入れるのに数時間並んだ。乗用車がほしければ雇い主の許可証が必要だった。カラーテレビは1年待ち。お金があってもモノがなかった」と振り返る。

 ソ連の計画経済では供給が需要を大きく下回った。現在の市場経済では供給が需要を上回る。大学でマーケティングを学んだパレル氏は「社会主義経済と自由主義経済の大きな違いは需給関係だ」と語る。

 ベルリンの壁が崩壊した89年からエストニアでは深刻なインフレーションが進んだ。92年には年間インフレ率が954%に達し、同国は旧ソ連ルーブルを捨て自国通貨クローンに切り替えた。1人につき1500ルーブルを150クローンに交換できた。「現在の10ユーロ(約1150円)ぐらいの価値しかなかった。ルーブルの貯金はゼロになった。それが新しい人生のスタートだった」とパレル氏は話す。

 エストニア中央銀行のエコノミスト、ピーター・ルイクメル氏は「紙幣の顔として旧ソ連の独裁者レーニンやスターリンを望む人はいなかった。エストニアを代表する人物や場所が紙幣を彩った」と説明する。

 デンマーク、ドイツ、スウェーデン、ロシアの支配を経たエストニアはロシア革命に乗じて18年に独立を宣言した。パレル氏の祖父は18歳で陸軍に参加し、ソ連の赤軍と戦った。

 「祖父と同じように多くの若者が祖国のために戦った。エストニアは小さかったが、フィンランド以上に発展した。祖父はその時の戦功メダルを宝物にしていました」とパレル氏。しかし、エストニアの短い春は独ソ不可侵条約の秘密議定書によりソ連に40年に併合されて幕を閉じた。

 エストニア外務省事務次官や首相補佐官を務めた同国選出のインドレック・タランド欧州議会議員は84〜86年、ソ連軍にモールス信号を打つ通信兵として徴兵された。「誰かが聞いているぞ」とロシア語で表記された通信機のステッカーをはがすと、ドイツ語で記された同じ注意書きが出てきた。「ソ連兵は威張っていたが、第二次大戦でドイツ軍から接収した通信機を使っていた。それを知り、ソ連が崩壊するのは間違いないと確信した」という。

 エストニア占領博物館に勤めるヘイキ・アホネン氏はソ連体制下、地下出版に参加して強制労働収容所や刑務所に送られた後、88年にスウェーデンに国外追放された。その年渡米したアホネン氏はニューヨークのエストニア領事館で“祖国”の旅券を手にした。

 エストニアが91年に再び独立する前だったが、ソ連に祖国が支配されてからも独立の意思を国際社会に訴えるため領事館は業務を続けていたのだ。

 地元経済誌のメリス・マンデル編集局長は「最初の独立は22年で終わったが、あの時代があったから祖国は約半世紀に及んだソ連の支配に耐えられた。ソ連の公安当局に隠れて各家庭で2月24日の独立記念日を祝い続けた」と打ち明ける。

 金融危機後、南欧諸国では政府の緊縮財政に対する抗議デモが吹き荒れたが、エストニアは10〜20%の賃下げを耐え忍んだ。マンデル編集局長は「エストニア国民の記憶には旧ソ連時代の赤い過去が生々しく刻まれている。どんなに苦しくても国家の支配よりも市場の自由を選択した。ルーブルへの親和性はない。私たちは欧州に属している」と話す。

 同国統計局によると、昨年9月時点でロシアは4番目の輸出相手国で、輸入では7番目。1998年のロシア財政危機でロシア離れが決定的になったという。

 廃止された旧5クローン紙幣の図柄は「世界王者になれなかった最強のチェス・プレーヤー」といわれた同国のパウリ・ケレス(16〜75年)とロシアとの国境の街ナルバの観光名所だった。エストニア領のヘルマン城だけでなく、ナルバ川を挟んで現在はロシア領にある要塞も描かれていた。

 ロシアへの牽制(けんせい)があったのだろうか。エストニア戦争博物館のトーマス・ヒーオ氏は「作者はケレスの生まれ故郷のナルバを選んだだけ」と語る。一方、ユーロ紙幣の図柄は欧州の各時代を代表するさまざまな建築様式の橋で統一されている。

 失業に苦しむナルバのロシア系住民は毎日、国境管理局を通って橋を渡り、ロシア側で購入した安価なたばこやガソリンをエストニア側で売りさばき、生計を立てている。

 「将来、ユーロ紙幣の図柄にある統合の橋がロシア側に架かって、自由に行き来ができるようになるだろうか」。ナルバの入国管理官に尋ねると、「そんなことは絶対にあり得ない」と吐き捨てた。(タリン、ナルバ 木村正人)

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